私は共感性が低い。

人の痛みに鈍い。

誰かが辛そうにしていても、嬉しそうにしていても、「へー」という無感情である(一応人生で鍛えられた反射で共感するフリはできる)。

テレビの向こうで泣いている人がいる。

きっと辛いことがあったんだろう。

そんな私はついに、やっと、この悩みへの理解が得られた。

これが就活前に行うべきだった自己分析であったと。

同じ悩みを持っている人にこの理解を届けたい。


結論から言うと、とても簡単で、

共感性が低い、ということすらも個性として利用してやれということである。

私はこの悩みに10年以上悩まされたのに、思い付いたときは呆気なかった。


そもそも共感性というもの、について話したいと思う。

共感性とは、他者の立場を想像してその人の気持ちになれる能力の尺度である。

共感性が高いというのは、右脳派や左脳派といったことで割りきることはできない。

何が原因かと問われても、正直断定することはできない。

強いて言うのであれば、私は遺伝や家庭環境であると考えている。

結局他責思考か?と思われるかもしれないが、自己の性格の形成までは自分で責任を負うことはできないであろう。


私は私の心を思いやって話しかけてくれる人が身の回りに居なかったと思う。

愛情は感じていた。物理的に。困ったら助けるくらいの脊髄反射的な思いやりは享受してきた。

お金にも困らなかった。何不自由なく育った。

それなりの勉強をして、それなりの学校へ行き、それなりの就職をした。

悩みを抱え、相談することはなかった。相談できる人がいなかった。

私の家族はみな、頭ごなしの結論を暴力的に投げつけ、理解をしてもらえないと自分勝手に思いやった気になる。


そんな日々を過ごした私は、社会ではサイコパスだった。

他者を思いやれない、自分勝手、単独行動、いじめへの関与

自分より頭の悪い人間をバカにする。

気に入らない相手には傲慢に振る舞い、勝手な怒りをぶつける。

私には共感性が低いあまりに犯した過ち、絶対に忘れられない苦い思い出がある。

ある日、私が好きな人に対して放った一言「あいつなら君でも簡単に付き合えるよ。」

自分の友達を平気で蔑み、好きな人からの印象も地の底に落としたこの一言がずっと脳裏に、瘡蓋を無理に剥がして永遠に治らなくなった私の膝小僧のように、こびりついている。

そこで初めて、その好きな人から私を軽蔑する言葉、私の心を思いやった言葉を貰い、自分の異常さを理解することができた。

そして、共感性という言葉を追求するきっかけを得たのであった。


それからの日々も苦痛を度々感じていた。

大学生になるとある程度改善され、大きな過ちを犯すことも減った。

しかし、自分の共感性の低さは至るところで露呈し、性格の矯正の困難さを強く実感した。

自分なりに共感力を高める試みはもちろん進んで取り組んだ。

共有部屋が汚ければ率先して掃除し、誰もやりたがらない役割も進んで担当した。

目が不自由な人の道案内もしたし、電車の乗り方が分からないと言ったおばあちゃんの案内もした。

けれども、どれも誠実さを伸ばすことには繋がっても共感性を改めることには繋がらなかった。

何故なら本心では、ちゃんと掃除しろよ、役割なんで早く決めないんだよ、邪魔だよ、忙しいのに声かけんなよなどと頭の片隅で思ってしまっているからである。


自分は人間の失敗作だと思う。

こんな人が世の中にいてはいけないと思うし、さっさと死ぬべきだとも思う。

でも生きていてほしいと思ってくれる人もいるし、私もそんな人達に恩返しがしたいとも思う。

自殺をした友達を羨ましく思うときもある。彼の絵はとても好きだった。

彼が最後に言った一言が忘れられない。不自由な世の中に疲れました、と。

私も共感性が低いという性格のせいで友達作りに励めず、一人を好む性格を強制され、

自分の人生がどこへ向かうのか正直分からないでいる。


でもこんな悩める毎日に今日、本日、とっておきの面白いことを思い付けたのだ。

こんな私の欠点だらけの精神・肉体も全部利用しつくしてやろうってね。

共感性が低いだって?そんなん全部利用しちゃえよ。

人の怪我も悩みも死も理解できないんなら、そんな人間性の真反対にいる側の価値観ってやつを全力で押し付けてやろうぜ。

人間の化けの皮を被った自分に少々呆れつつあった。

一応ほんの少しの優しさは持ってはいるが、あまり出番は来ない。

犬や猫の動画をみて癒される自分と、虐待的な思考を持つ自分がいる。

そういったことが起こる度に社会的疎外感を感じるが、

考える分には悪ではないと開き直ることにした。


こんなことを言ってきたが、共感性を得ることに対する未練はタラタラである。

必死に自分の言葉に間違いがないか目くじらを立てながら、誤解を与えないように、

丁寧に丁寧に人間関係を作っていくよりも、適当に話しかけて友達を作って、ワイワイしたかった。

なんでこんな人間に生まれてきてしまったんだろうと、後悔しない日はない。


だから私はいま、共感性を高めるための意識をしつつ、共感性の低さを利用する作戦を練っている。

社会的上位に立つ人間は共感性が低い人が多いらしい。

戦略的に人付き合いをしていくことで、要らない人間を簡単に切れるためである。

別に上位に立ちたい訳ではないが、そういった人達も同じ悩みを抱えているのではないかと思う。

私はこのまま努力をしていけば共感性が高い人と低い人の橋渡しになれる可能性がある。

コヴィーの著書「七つの習慣」では他者を理解しようとすることでしか、自己を理解されることは得られないという。

つまり、理解しようとする試み、営みのなかで、関係性が築かれるということである。

共感性が低くても理解しようとする姿勢は見せることができるのだ。


まだまだ私にも可能性がある。

こんな小さな思い付きに、少し慰められたのであった。


私の生活環境が不本意なものであったというような記述をしたが感謝をしていない訳ではない。

宇宙の広さを思えば私の悩みもちっぽけだ。

私が一人の人間であるように、私の家族も一人の人間だ。

後悔や反省に伴って成長する機会はいくらでもある。

何事も長い目で見るのが大切なんだと、

父が教えてくれたこの言葉は、私の胸の奥に大切にしまってある。



拙い文章を最後まで読んでくれてありがとうございます。

まだまだ文章力は低いですが、現在読書に邁進して鍛えているところなので、ご容赦願います。

私のこの悩みも時が経てば解釈が変わり、より本質を捉えた形で説明できるのではないかと思っています。

こいつやべぇやつじゃん…って思わずに面白いやつだな、この先の成長が楽しみだな、と

長い目で見てやってください。