-
おとなの秘密基地
そこは小さなショッピングモールの2Fテラスのベンチにあった。日陰にあるベンチに座ると少し狭い青空が眺められる。風が吹くと街路樹が揺れ、肌を柔らかく撫でていく。たまに家族連れや年配者が私の前を通るが、私に関心を寄せることはない。近くにはカフェとbook offがあり、いつでも立ち寄ることができる。都会の喧騒はない。そして賑やかな声に囲まれ、孤独を感じることもない。幸せな空間。私の秘密基地だ。いつか誰かに教えてあげたい。
-
彼は死んだ。
彼は死んだ。私と一緒に生きていくと信じていた。しかし、いつの間にかいなくなっていた。私が病を患い、病床で横になっていたとき、枕の上で首を傾けたときにはもうそこにいなかった。頭痛がひどい。後頭部から前頭部にかけてミシミシと音を立てるように何かを詰め込まれているような痛さ。全身が怠い。体のどこにも力が入らず、ふと起き上がろうとすると体の奥底から詰まったトイレのように口元に何かが沸き上がってくる。日頃の行いだろうか。彼には紳士に向き合うことを念頭に置いていた。将来を夢見ていた。幸せな家庭を築き、子供を2人産み、一緒に育てていくんだと、そう信じきっていた。でも私は彼を殺した。彼は狭いキッチンで憂鬱そうに朝食を作っていた。私は襖を少し開き、それを視界に入れた。彼は振り返った。私は視線を遮るようにそっと襖を閉めた。帰る意思はもう昨晩に決めていた。彼とは相容れないのだと確信したから。少し迷ったりもしたが、ここで一緒に気まずい空気を吸って錆びていくより、互いのためにも帰ったほうが懸命だと思ったのだ。私は後悔した。こんなことになるなら付き合うんじゃなかったと。そして、別れるんじゃなかったと。彼はいい人だった。そう、ただいい人だった。私が失敗しても最後は許してくれるし、世間の言う悪い習慣というのを持ち合わせていなかった。いい人だった。私には勿体ない人だった。だから何度も自問自答した。彼にはもっと相応しい人がいる。そして、彼もそう思っている。「私と付き合ってて楽しい?私のこと好き?」つい、そう聞いてしまった。答えはとっくに分かっていたのに。彼は嘘をつかない。私が求める優しい嘘も、言ってはくれない。「大切だとは、思っているよ。」分かっていたのに、ひどく傷付いた。もうあの頃の快楽は得られない、戻れない、ここはどこ?徐々に心が廃墟のように、廃れていった。彼をもう愛せなくなってしまっていた。乱暴に襖を開いた。「朝ごはん、食べる?」「要らない」彼は空虚な言葉で朝食を誘った。キッチンの端では、銀のボウルにキャベツとキュウリがぐちゃぐちゃになって詰め込まれていた。とても不味そうだった。心なしか足取りも重くなり、空気の重さを感じるのに空気が無いかのように、足音が部屋に響いた。彼との思い出を詰め込みすぎた重たい鞄を持ち上げ玄関を開けた。「気を付けてね。」彼の言葉に恐怖を覚え、ドアを思い切り閉めた。私は彼を殺した。そうだ、彼はここで死んだのだ。
-
共感性が低いという悩みへの一つの解決案
私は共感性が低い。人の痛みに鈍い。誰かが辛そうにしていても、嬉しそうにしていても、「へー」という無感情である(一応人生で鍛えられた反射で共感するフリはできる)。テレビの向こうで泣いている人がいる。きっと辛いことがあったんだろう。そんな私はついに、やっと、この悩みへの理解が得られた。これが就活前に行うべきだった自己分析であったと。同じ悩みを持っている人にこの理解を届けたい。結論から言うと、とても簡単で、共感性が低い、ということすらも個性として利用してやれということである。私はこの悩みに10年以上悩まされたのに、思い付いたときは呆気なかった。そもそも共感性というもの、について話したいと思う。共感性とは、他者の立場を想像してその人の気持ちになれる能力の尺度である。共感性が高いというのは、右脳派や左脳派といったことで割りきることはできない。何が原因かと問われても、正直断定することはできない。強いて言うのであれば、私は遺伝や家庭環境であると考えている。結局他責思考か?と思われるかもしれないが、自己の性格の形成までは自分で責任を負うことはできないであろう。私は私の心を思いやって話しかけてくれる人が身の回りに居なかったと思う。愛情は感じていた。物理的に。困ったら助けるくらいの脊髄反射的な思いやりは享受してきた。お金にも困らなかった。何不自由なく育った。それなりの勉強をして、それなりの学校へ行き、それなりの就職をした。悩みを抱え、相談することはなかった。相談できる人がいなかった。私の家族はみな、頭ごなしの結論を暴力的に投げつけ、理解をしてもらえないと自分勝手に思いやった気になる。そんな日々を過ごした私は、社会ではサイコパスだった。他者を思いやれない、自分勝手、単独行動、いじめへの関与自分より頭の悪い人間をバカにする。気に入らない相手には傲慢に振る舞い、勝手な怒りをぶつける。私には共感性が低いあまりに犯した過ち、絶対に忘れられない苦い思い出がある。ある日、私が好きな人に対して放った一言「あいつなら君でも簡単に付き合えるよ。」自分の友達を平気で蔑み、好きな人からの印象も地の底に落としたこの一言がずっと脳裏に、瘡蓋を無理に剥がして永遠に治らなくなった私の膝小僧のように、こびりついている。そこで初めて、その好きな人から私を軽蔑する言葉、私の心を思いやった言葉を貰い、自分の異常さを理解することができた。そして、共感性という言葉を追求するきっかけを得たのであった。それからの日々も苦痛を度々感じていた。大学生になるとある程度改善され、大きな過ちを犯すことも減った。しかし、自分の共感性の低さは至るところで露呈し、性格の矯正の困難さを強く実感した。自分なりに共感力を高める試みはもちろん進んで取り組んだ。共有部屋が汚ければ率先して掃除し、誰もやりたがらない役割も進んで担当した。目が不自由な人の道案内もしたし、電車の乗り方が分からないと言ったおばあちゃんの案内もした。けれども、どれも誠実さを伸ばすことには繋がっても共感性を改めることには繋がらなかった。何故なら本心では、ちゃんと掃除しろよ、役割なんで早く決めないんだよ、邪魔だよ、忙しいのに声かけんなよなどと頭の片隅で思ってしまっているからである。自分は人間の失敗作だと思う。こんな人が世の中にいてはいけないと思うし、さっさと死ぬべきだとも思う。でも生きていてほしいと思ってくれる人もいるし、私もそんな人達に恩返しがしたいとも思う。自殺をした友達を羨ましく思うときもある。彼の絵はとても好きだった。彼が最後に言った一言が忘れられない。不自由な世の中に疲れました、と。私も共感性が低いという性格のせいで友達作りに励めず、一人を好む性格を強制され、自分の人生がどこへ向かうのか正直分からないでいる。でもこんな悩める毎日に今日、本日、とっておきの面白いことを思い付けたのだ。こんな私の欠点だらけの精神・肉体も全部利用しつくしてやろうってね。共感性が低いだって?そんなん全部利用しちゃえよ。人の怪我も悩みも死も理解できないんなら、そんな人間性の真反対にいる側の価値観ってやつを全力で押し付けてやろうぜ。人間の化けの皮を被った自分に少々呆れつつあった。一応ほんの少しの優しさは持ってはいるが、あまり出番は来ない。犬や猫の動画をみて癒される自分と、虐待的な思考を持つ自分がいる。そういったことが起こる度に社会的疎外感を感じるが、考える分には悪ではないと開き直ることにした。こんなことを言ってきたが、共感性を得ることに対する未練はタラタラである。必死に自分の言葉に間違いがないか目くじらを立てながら、誤解を与えないように、丁寧に丁寧に人間関係を作っていくよりも、適当に話しかけて友達を作って、ワイワイしたかった。なんでこんな人間に生まれてきてしまったんだろうと、後悔しない日はない。だから私はいま、共感性を高めるための意識をしつつ、共感性の低さを利用する作戦を練っている。社会的上位に立つ人間は共感性が低い人が多いらしい。戦略的に人付き合いをしていくことで、要らない人間を簡単に切れるためである。別に上位に立ちたい訳ではないが、そういった人達も同じ悩みを抱えているのではないかと思う。私はこのまま努力をしていけば共感性が高い人と低い人の橋渡しになれる可能性がある。コヴィーの著書「七つの習慣」では他者を理解しようとすることでしか、自己を理解されることは得られないという。つまり、理解しようとする試み、営みのなかで、関係性が築かれるということである。共感性が低くても理解しようとする姿勢は見せることができるのだ。まだまだ私にも可能性がある。こんな小さな思い付きに、少し慰められたのであった。私の生活環境が不本意なものであったというような記述をしたが感謝をしていない訳ではない。宇宙の広さを思えば私の悩みもちっぽけだ。私が一人の人間であるように、私の家族も一人の人間だ。後悔や反省に伴って成長する機会はいくらでもある。何事も長い目で見るのが大切なんだと、父が教えてくれたこの言葉は、私の胸の奥に大切にしまってある。拙い文章を最後まで読んでくれてありがとうございます。まだまだ文章力は低いですが、現在読書に邁進して鍛えているところなので、ご容赦願います。私のこの悩みも時が経てば解釈が変わり、より本質を捉えた形で説明できるのではないかと思っています。こいつやべぇやつじゃん…って思わずに面白いやつだな、この先の成長が楽しみだな、と長い目で見てやってください。
-
アイスコーヒー
「アイスコーヒーで」私はそういってカウンターに並んだ。立川駅近くのドトールは人でごった返し、ろくに集中して読書できるような環境ではなかった。翌日、調布の駅前にある珈琲館へ行った。窮屈な階段を上り、扉を開けお店にはいる。派手なショルダーバッグを肩にかけた女とよくいるその辺の男が浮わつきながら会計しているのを横目に順番を待った。「店内ご利用ですか。」私は頷いた。「空いてる席をご利用ください。」自由に座れるのはカフェの良いところだ。朝9時であるのに数十席あるうちの6割は埋められ、なんと暇している人の多い街だろうと思った。席に着き、注文を試みた。スマートフォンでQRコードを読み取り、至って平凡なコーンのサンドイッチセットと炭火コーヒーを注文した。三体Ⅱの下巻は三体Ⅰや三体Ⅱの上巻と構成を同じくして、様々なバックグラウンドを持つ登場人物を配置することで、未知の生命体の去来が与える社会的な影響を物語っていた。テーブルが低く、足が組めないことに若干の苛立ちを覚える。姿勢の悪さは私の悪習である。気付いたときには背筋の右側だけ筋肉痛になるなど、誰も味合わないであろう痛みに耐えていることがある。暫く体勢を変えながら読書に勤しむ。13時の美容院まで私はそこで本を読んだ。複雑な思いを抱えている。そんな悩みを持つとき、だいたい問題はシンプルかもしれない。長い読書を終えて、ふと我に返ると満足していない自分がいた。不思議に思い、悩み始めた。これは複雑な思いなのかもしれないと。しかし、少し考えて分かったことは、ただ思考が働いていなかったからだということに気付いた。読書をしているとたまに思考することを忘れているときがある。少しの疲れからだろうか。今日は朝5時から昼の15時まで読書しているので、かれこれ10時間は紙の上の黒いインクと向き合っていたことになる。普通の人には考えられない時間だろうか。人と接することに若干の喜びを感じて生活する人々とは相容れない考え方だろうか。しかし、こうして思考を巡らせているとただ疲れていた訳ではないことに気付いてくる。単純に本の世界にのめり込み味わっていたのかもしれない。そう考えるとふと体が軽くなったような気がする。何事もきっとそうだ。悪いほうに考えるから悪いほうへ行くのだ。車の運転と同じだ。小学生の列に突っ込んでいくのは、そちらを注視するあまりに引き寄せられ、事故が起きやすいという。今日はTULLY'S COFFEEに来ていた。うっすら灰色に覆われた空に一抹の不安を抱きながら家を出で、いつものように自己の社会性低さを反省しつつ来店した。今日こそは前から興味を持っていたパスタを食べてみたいと思いながらメニューを見る。いくつかSold outとシールが張られていたが、まだ2品ほど残っており、迷わず一番上のメニューを頼んだ。レモンクリームパスタの味は名前そのままで自分でも作れそうな気がした。そしてやはりここのアイスコーヒーは当たりだ。
-
寄生虫
恋する寄生虫という本を読んだ。内容としては、お互いに抱いていた恋心が寄生虫によるものだと発覚したとき、どのような判断に委ねるべきか、といった葛藤とそのドラマを描いたものとなっている。そこでふと思ったことがある。現実世界の私たちの恋という思いは、思考は、寄生虫によるものでないと誰が言えるのだろうかと。例えば、子孫繁栄を促すための寄生虫の作用である可能性がある。生命としての役割を全うさせようと、寄生虫が脳に恋愛という感情を植え付けているのだ。現代社会では恋愛するを必要性はない。何故なら一人で生きていけるからである。以前に現代社会に近い環境を模した「UNIVERSE25」という研究を耳にしたことがある。ネズミ数匹にユートピア(食糧の無限供給)を提供したところ、ある一定数までは増殖するものの、徐々に社会性が失われていき全滅してしまうというものであった。このユートピアというのは私たちのなかの寄生虫を殺す作用がありそうであると考える。現に、私の中の社会性は一般的に見ても平均以下なのではないかと疑っている。学校でも馴染めず、就活もままならず、就職後も同期と打ち解けるのが比較的遅い。そして恋愛する必要性を感じていない。いざ恋人ができても価値を見いだせず、ただ親切な人として寄り添ったが、相手から愛情が足りないと見捨てられる。攻撃的な父と、それによってさらに攻撃的になる母に囲まれて育った私は「UNIVERSE25」で生まれるニートネズミに似たような社会性を持たせるように育てられた。このようにして、私の中の生存本能のための恋愛という機能を促す寄生虫は絶滅してしまったのである。これはいずれ、恋愛だけに留まらなくなるだろう。三大欲求も寄生虫によるもの、人との関係も、家族関係も、承認欲求も、全て寄生虫によるもの。社会は人と人が寄り添いあって生きているなんて言うが、これはただ人間が社会に寄生して群がっているにすぎない。人間も寄生虫みたいなものだ。あなたも、あなたの感情も、あなたの生まれた理由も全て寄生虫によるもの。だからといって死ぬ理由にはならない。寄生虫だと理解して、お互いに依存しあって寄り添いあっていけばいい。あなたの中の、私の中の恋するための寄生虫を取り戻せばいい、それだけなんだ。