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殺戮にいたる病を読んで ※ネタバレ注意
結論から言うと、本書の人物トリックに見事騙された。炎上ではない俺という本を読んだばかりと言うこともあって、もう絶対に騙されないぞと思いながら読み進めてはいたが、まんまとやられた。また本書では、結末においてただその事実だけを明かし、トリックの解説をしていない。最初から最後までトリックを明かしてくれるミステリーも好きだが、読者に独自の解釈をさせるという終わり方も新鮮で良い。ただ、犯罪心理学の大学教授やタナトス・コンプレックス、記者の斉藤といった要素が物語にあまり深く関わってこなかったため、少し荒削りさを感じさせる。ここからは憶測になる。本書では、息子=父親という、誰しも親から生まれた子であることから当たり前の構図ではあるが、ついつい頭から排してしまう関係性を使った人物(叙述)トリックが扱われている。この息子=父親に当たる人物が、稔であると判明する結末から少し遡って考えてみた。まず、この父親=息子という構図を知って気になったのは、今まで息子息子と言って追っていた母親の正体である。最終的に、稔の母親は雅子(妻)ではなかったことがわかる。この雅子は家に帰ってこない稔(夫)のことなど全く気にかけてなどおらず、ずっと稔との間の子の方の息子(信一)を心配していたのである。しかし、ここで疑問が浮上する。部屋に自慰行為の形跡がある日を境に消えたのは?8ミリカメラの形跡があったのは?ゴミ箱の黒い袋は?毎晩遅くに帰ってきていたのは?などそしてこれに気づけるヒントは実は多くある。最初のは、二人目の被害者が「おじさん」と呼ぶシーンである。その他では、雅子と稔だけしか家にいない場面で、雅子は息子に問いたださなければと決意を固めるシーンである。ここだけ読めば、え?今聞きにいけばいいのにとなるが、このシーンに着くまでに洗脳されてしまっていたため、違和感に気づくことはできなかった。そしてこれらの謎を振り返る前に、一つの事象について思い出す必要がある。それは、稔がかおるを絞殺しようとしている場面に登場し、「その人から手を離すんだ」と息子(信一)が稔に対して声をかける場面である。つまり、息子(信一)は稔がかおるをホテルに連れ込むことを知っていた、あるいは知った、ということになる。息子(信一)は自分の父親が性的異常者(病気)であると何らかのきっかけで知り、その行為を止めようとしていた。そして、このきっかけは冒頭の29pあたりで既に書かれていたのである。2回目の殺人が起こる2月3日より以前に妻の雅子は息子の様子がここ数ヶ月何かに脅えている様子であると観察している。つまり、息子(信一)は父親(稔)の最初の殺人で既に何かを察していたことになる。ただ、これについては描写がないので、あくまで想像になってしまう。しかし、これで粗方辻褄が会う。息子(信一)は父親の正体を突き止めるため、尾行し、黒い袋の正体にいち早く気づくことができた。また、証拠を手に入れるため、たびたび父親を尾行していたために、夜遅くに帰ることが増えたのであろう。また、8ミリビデオを見ていたのは、おそらくその黒い袋の中に入っていたため、確認のために見ていたのではないだろうか。自慰のタイミングは尾行の忙しさで減っただけだと読み取れる。以上が私の憶測になる。このようにして、あれはどうだったのか、じゃああれは、というように物語を辿っていくのはなかなか面白かった。ただ、またもや騙されることとなり、不甲斐ない気持ちである。
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読書記録 - ストーンサークルと君の話 -
今日は君の話とストーンサークルを少しずつ読んだ。朝起きてすぐ、1時間ほど君の話を読み、夜30分ほどストーンサークルを読み進めた。君の話は、三秋縋さんという作者が書いた作品の一つであり、恋する寄生虫がとても面白かったので、別の作品も読んでみようということで購入した。この作品は、「義憶」という概念が当たり前となった世界を舞台にしており、これがスパイスとなっている。この「義憶」というのは科学の発展により、人の記憶を操作することが可能になったことによって生まれた概念で、義足や義手の感覚で記憶も補うことが必要だと「義憶」の技術と文化が徐々に人々の間に浸透してゆく中で生まれたものになる。そしてこれをきっかけに、日常的な記憶の改変が当たり前の世の中となっていってしまうのである。そんなある日、主人公はある人物と出会うことで、自分の記憶が「義憶」なのか「記憶」なのかという混乱に陥ることになり、真実を突き詰めるために記憶を辿っていくというストーリー。今のところは、まだ主人公は真実を突き詰められておらず、疑心暗鬼となりながらもそのある人物にとりあえずの警戒心を解いている。ここから徐々に面白くなりそうなので、明日も読み進めていきたいところ。ストーンサークルは、なかなか残酷なお話で、結構濃密な謎解き要素が含まれているので、もう少し頭を整理してから語りたいと思う。
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副業どうしようかな〜
正直、今の開発業務だけだと将来的なお金に対して不安がある。お金だけでなく、そもそもこの今いる会社が残っているかも危うい。。。やりたいことはいっぱいあるのに、行動に移すのも面倒で。でもweb開発だけは楽しくてやめられない。会社にいる間もweb開発のことばかり考えていて、こんなシステムどうですか?など言って、勝手に作ったwebサーバを売り込んだりしている。正直業務よりも楽しい。web開発の方に転職をするのもありだが、そっちの方が将来性が危ういのもわかる。自分自身、今のところweb開発はほとんどChatGPTで行えているし、CSSやHTMLの知識が一切なくてもうまく進められている。副業の候補としては以下のようなものを考えている。- web開発の売り込み- web開発のアドバイザー- 読書ブログ- ココナラを使った小遣い稼ぎ- 地域の紹介、宣伝- シンプルにブログをもっと面白いものにする- webで何かコンテンツを作る実績がないと見積もりを立てられないし、立てる方法も分からない。まずはやってみることからだが、ここが一番難しそう。なかなか副業と言ってもこれがどうしてもやりたい、というものがあるわけでもないので一歩目を踏み出すことができずにいる。不労所得に対する憧れもある。それさえあれば、一日中読書して違う世界に思い耽ることができるから。不動産や株の勉強をしつつ、それをブログで更新していくということも考えていたがその資料集めにも投資が必要で、本当に何からしようか悩み続けている。
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[近況報告]そろそろ業務に慣れた?
福島勤務を迎えてそろそろ5ヶ月になる。福島は想像していたよりも住みやすい街で、駅周辺はだいたい買いたいものが揃っている。強いて言えば、雑貨屋や家具屋、洋服屋が欲しかったくらい。あと普通のディナーが食べられるお店。あとはラーメン屋がもっと欲しかったかなー。著者が住む場所は駅からバスで30分ほどの場所にある住宅街で、夜間は真っ暗で一寸先も見えない。バス代は会社から出るので普通に駅近くに住めばよかったと後悔している。配属当初は福島のことを不幸な事故が起きてしまった地域くらいの認識しかなかったので、福島のことを知る目的もあって駅近くを毎週末探検していた。その当時は読書にハマっていたこともあって、カフェ巡りをしながら読書に勤しんでいた。今思えば一番幸せな時だったなと思う。今も十分幸せだけど、いざ業務が始まってしまうと色々と余裕がなくなって、趣味の時間を見つけられなくなってしまった。とか言って、帰宅後はswitchを手放さないくらいゲームをしているけれど。。。まあ結局、そのカフェ巡りのおかげで、福島の県民性を知れたり、職場の人との話題に繋げられたり、いい事づくめだったので、こういう知見の広げ方もアリだな思った。この5ヶ月は本当に濃密な期間だった。福島のあちこちを探検しまくった。桃狩りにも行ったし、赤べこランドにも行ったし、飯坂温泉や土湯温泉にまでも行った。さらに会津や喜多方の方にも行き、ラーメンも食べた。もう福島満喫したから別のとこに引っ越してもいいかも知れない(早すぎる)くじらさんの4thワンマンライブにも行けたし、毎日幸せで溢れすぎてる気がする。。。あ、業務の話をするのを忘れていた。業務は徐々に任されるようになってきているが、まだ小出しな状態が続いている。さすが古株の企業だけあって、高齢者が大半を占めており、若者に対する扱いが孫に近い。もうちょっと責任や権利を与えてくれれば、ガンガン主張していけるのになーと思つつ、この心地よいぬるま湯も悪くないと感じている今日この頃。ただ、本業以外のことは放任で、なんでもやっていいよ〜という感じなので、勝手にセミナーに参加して受けまくって、Pythonでアプリやサーバを開発しまくっている。これが一番楽しい!!サーバ開発をしている時の自分が一番生き生きしている気がする。先日、研修時代の同期が会社見学で東京からやってきて、情報交換をする場があったが、その時もサーバの話を振られた瞬間、テンションが上がりすぎてつい喋りすぎてしまった。サーバ開発の沼にみんなをぜひ招待したい。これから徐々にサーバ開発のノウハウのようなものをテキスト化して、初心者でもすぐに上達していけるよう援助できればと考えている。さて、だいたい近況報告も終わったことなので、最後に余談で締めたいと思う。実は最近、鍋にハマっていて。というのも学生時代に住んでいたアパートのキッチンが狭すぎて鍋どころじゃなかったことで、広いキッチンで鍋が作れることに感動し、それから頻繁に作るようになったという経緯。いや、美味いね。鍋。今日はちゃんこ鍋の素を買って作りました。美味すぎる。幸せ。泣きそう。みんなも鍋をおたべ。
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夜
ある一説、浅瀬で溺れていたことに気付いた。これは人生の比喩であり、苦労していたところは俯瞰して見ると思っていたよりも簡単だったというような意味合いだ。今日を生きるのに精一杯な私たち。俯瞰して見てみたらどうだろう?ご飯を食べて寝ているだけで生活などできるのだ。その間に誰かを幸せにする方法を考えれば自然と生きる意味は見つかりそうだ。人生の仕組み事態は簡単だ。海で例えれば、渡り方さえ分かれば生きられるというものだ。泳ぐのが怖いなら船を作ればいい。海が怖いなら空を飛べばいい。みんなが泳ぐから私も泳がなければいけないなんてことはない。学校で教わる泳ぎ方はクロールだ。クロールが一番簡単だからだ。でも君にとってはクロールは簡単じゃないかもしれない。でも学校はクロール以外を教えてはくれない。親も友達もクロールしか知らないからクロールを教えるしかない。君の海の越えかたは誰も教えてくれない。君が探すしかない。だって君を一番知っているのは君なのだから。君がやりやすい方法を君が探して実践して工夫して失敗してまた工夫してを繰り返す。そうすることで君だけの生き方が分かる。私はまだクロールが一番簡単という洗脳が解けていない。だから机に座って勉強して就活して失敗して疲れはてている。もういいんじゃないか?好きなように生きようぜ。周りに合わせないでさ。自分が一番やりやすい方法で誰かを幸せにしようぜ。何がいいかな~まだ全然分からないけど、分からないからこそ色々試す。音楽?絵?芸人?スポーツ?発明?開発?執筆?得意なことが無いならyoutuberとかやってみたら?人と関わることで何かが得られるかもよ。それかひたすら読書して、その中に何か面白そうなものを見つけたらそれを試してみてもいいかもね。世界を知る。そして自分を知る。順番はどっちでもいいけど知識がないとやりようがないから。まずは知ることから。そんで得た知識を披露して同じ気持ちを味わってる人を救ってやろうぜ。それがまず第一歩になる。さあ夜も深い。時間はいくらでもある。明日やろう。今日はおやすみ。これは私が昔書いたもの。あなたのお陰で今私は救われていると伝えてあげたい。
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共感性が低いという悩みへの一つの解決案
私は共感性が低い。人の痛みに鈍い。誰かが辛そうにしていても、嬉しそうにしていても、「へー」という無感情である(一応人生で鍛えられた反射で共感するフリはできる)。テレビの向こうで泣いている人がいる。きっと辛いことがあったんだろう。そんな私はついに、やっと、この悩みへの理解が得られた。これが就活前に行うべきだった自己分析であったと。同じ悩みを持っている人にこの理解を届けたい。結論から言うと、とても簡単で、共感性が低い、ということすらも個性として利用してやれということである。私はこの悩みに10年以上悩まされたのに、思い付いたときは呆気なかった。そもそも共感性というもの、について話したいと思う。共感性とは、他者の立場を想像してその人の気持ちになれる能力の尺度である。共感性が高いというのは、右脳派や左脳派といったことで割りきることはできない。何が原因かと問われても、正直断定することはできない。強いて言うのであれば、私は遺伝や家庭環境であると考えている。結局他責思考か?と思われるかもしれないが、自己の性格の形成までは自分で責任を負うことはできないであろう。私は私の心を思いやって話しかけてくれる人が身の回りに居なかったと思う。愛情は感じていた。物理的に。困ったら助けるくらいの脊髄反射的な思いやりは享受してきた。お金にも困らなかった。何不自由なく育った。それなりの勉強をして、それなりの学校へ行き、それなりの就職をした。悩みを抱え、相談することはなかった。相談できる人がいなかった。私の家族はみな、頭ごなしの結論を暴力的に投げつけ、理解をしてもらえないと自分勝手に思いやった気になる。そんな日々を過ごした私は、社会ではサイコパスだった。他者を思いやれない、自分勝手、単独行動、いじめへの関与自分より頭の悪い人間をバカにする。気に入らない相手には傲慢に振る舞い、勝手な怒りをぶつける。私には共感性が低いあまりに犯した過ち、絶対に忘れられない苦い思い出がある。ある日、私が好きな人に対して放った一言「あいつなら君でも簡単に付き合えるよ。」自分の友達を平気で蔑み、好きな人からの印象も地の底に落としたこの一言がずっと脳裏に、瘡蓋を無理に剥がして永遠に治らなくなった私の膝小僧のように、こびりついている。そこで初めて、その好きな人から私を軽蔑する言葉、私の心を思いやった言葉を貰い、自分の異常さを理解することができた。そして、共感性という言葉を追求するきっかけを得たのであった。それからの日々も苦痛を度々感じていた。大学生になるとある程度改善され、大きな過ちを犯すことも減った。しかし、自分の共感性の低さは至るところで露呈し、性格の矯正の困難さを強く実感した。自分なりに共感力を高める試みはもちろん進んで取り組んだ。共有部屋が汚ければ率先して掃除し、誰もやりたがらない役割も進んで担当した。目が不自由な人の道案内もしたし、電車の乗り方が分からないと言ったおばあちゃんの案内もした。けれども、どれも誠実さを伸ばすことには繋がっても共感性を改めることには繋がらなかった。何故なら本心では、ちゃんと掃除しろよ、役割なんで早く決めないんだよ、邪魔だよ、忙しいのに声かけんなよなどと頭の片隅で思ってしまっているからである。自分は人間の失敗作だと思う。こんな人が世の中にいてはいけないと思うし、さっさと死ぬべきだとも思う。でも生きていてほしいと思ってくれる人もいるし、私もそんな人達に恩返しがしたいとも思う。自殺をした友達を羨ましく思うときもある。彼の絵はとても好きだった。彼が最後に言った一言が忘れられない。不自由な世の中に疲れました、と。私も共感性が低いという性格のせいで友達作りに励めず、一人を好む性格を強制され、自分の人生がどこへ向かうのか正直分からないでいる。でもこんな悩める毎日に今日、本日、とっておきの面白いことを思い付けたのだ。こんな私の欠点だらけの精神・肉体も全部利用しつくしてやろうってね。共感性が低いだって?そんなん全部利用しちゃえよ。人の怪我も悩みも死も理解できないんなら、そんな人間性の真反対にいる側の価値観ってやつを全力で押し付けてやろうぜ。人間の化けの皮を被った自分に少々呆れつつあった。一応ほんの少しの優しさは持ってはいるが、あまり出番は来ない。犬や猫の動画をみて癒される自分と、虐待的な思考を持つ自分がいる。そういったことが起こる度に社会的疎外感を感じるが、考える分には悪ではないと開き直ることにした。こんなことを言ってきたが、共感性を得ることに対する未練はタラタラである。必死に自分の言葉に間違いがないか目くじらを立てながら、誤解を与えないように、丁寧に丁寧に人間関係を作っていくよりも、適当に話しかけて友達を作って、ワイワイしたかった。なんでこんな人間に生まれてきてしまったんだろうと、後悔しない日はない。だから私はいま、共感性を高めるための意識をしつつ、共感性の低さを利用する作戦を練っている。社会的上位に立つ人間は共感性が低い人が多いらしい。戦略的に人付き合いをしていくことで、要らない人間を簡単に切れるためである。別に上位に立ちたい訳ではないが、そういった人達も同じ悩みを抱えているのではないかと思う。私はこのまま努力をしていけば共感性が高い人と低い人の橋渡しになれる可能性がある。コヴィーの著書「七つの習慣」では他者を理解しようとすることでしか、自己を理解されることは得られないという。つまり、理解しようとする試み、営みのなかで、関係性が築かれるということである。共感性が低くても理解しようとする姿勢は見せることができるのだ。まだまだ私にも可能性がある。こんな小さな思い付きに、少し慰められたのであった。私の生活環境が不本意なものであったというような記述をしたが感謝をしていない訳ではない。宇宙の広さを思えば私の悩みもちっぽけだ。私が一人の人間であるように、私の家族も一人の人間だ。後悔や反省に伴って成長する機会はいくらでもある。何事も長い目で見るのが大切なんだと、父が教えてくれたこの言葉は、私の胸の奥に大切にしまってある。拙い文章を最後まで読んでくれてありがとうございます。まだまだ文章力は低いですが、現在読書に邁進して鍛えているところなので、ご容赦願います。私のこの悩みも時が経てば解釈が変わり、より本質を捉えた形で説明できるのではないかと思っています。こいつやべぇやつじゃん…って思わずに面白いやつだな、この先の成長が楽しみだな、と長い目で見てやってください。
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アイスコーヒー
「アイスコーヒーで」私はそういってカウンターに並んだ。立川駅近くのドトールは人でごった返し、ろくに集中して読書できるような環境ではなかった。翌日、調布の駅前にある珈琲館へ行った。窮屈な階段を上り、扉を開けお店にはいる。派手なショルダーバッグを肩にかけた女とよくいるその辺の男が浮わつきながら会計しているのを横目に順番を待った。「店内ご利用ですか。」私は頷いた。「空いてる席をご利用ください。」自由に座れるのはカフェの良いところだ。朝9時であるのに数十席あるうちの6割は埋められ、なんと暇している人の多い街だろうと思った。席に着き、注文を試みた。スマートフォンでQRコードを読み取り、至って平凡なコーンのサンドイッチセットと炭火コーヒーを注文した。三体Ⅱの下巻は三体Ⅰや三体Ⅱの上巻と構成を同じくして、様々なバックグラウンドを持つ登場人物を配置することで、未知の生命体の去来が与える社会的な影響を物語っていた。テーブルが低く、足が組めないことに若干の苛立ちを覚える。姿勢の悪さは私の悪習である。気付いたときには背筋の右側だけ筋肉痛になるなど、誰も味合わないであろう痛みに耐えていることがある。暫く体勢を変えながら読書に勤しむ。13時の美容院まで私はそこで本を読んだ。複雑な思いを抱えている。そんな悩みを持つとき、だいたい問題はシンプルかもしれない。長い読書を終えて、ふと我に返ると満足していない自分がいた。不思議に思い、悩み始めた。これは複雑な思いなのかもしれないと。しかし、少し考えて分かったことは、ただ思考が働いていなかったからだということに気付いた。読書をしているとたまに思考することを忘れているときがある。少しの疲れからだろうか。今日は朝5時から昼の15時まで読書しているので、かれこれ10時間は紙の上の黒いインクと向き合っていたことになる。普通の人には考えられない時間だろうか。人と接することに若干の喜びを感じて生活する人々とは相容れない考え方だろうか。しかし、こうして思考を巡らせているとただ疲れていた訳ではないことに気付いてくる。単純に本の世界にのめり込み味わっていたのかもしれない。そう考えるとふと体が軽くなったような気がする。何事もきっとそうだ。悪いほうに考えるから悪いほうへ行くのだ。車の運転と同じだ。小学生の列に突っ込んでいくのは、そちらを注視するあまりに引き寄せられ、事故が起きやすいという。今日はTULLY'S COFFEEに来ていた。うっすら灰色に覆われた空に一抹の不安を抱きながら家を出で、いつものように自己の社会性低さを反省しつつ来店した。今日こそは前から興味を持っていたパスタを食べてみたいと思いながらメニューを見る。いくつかSold outとシールが張られていたが、まだ2品ほど残っており、迷わず一番上のメニューを頼んだ。レモンクリームパスタの味は名前そのままで自分でも作れそうな気がした。そしてやはりここのアイスコーヒーは当たりだ。
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何をすれば何からすれば
最近の悩みに「何をすれば、何からすれば」がある 何をするにしても付いてくる それから逃げるようにサイト作りやゲーム、読書にハマる 俺は何をして、何からすればいいんだ